中世西洋音楽とグレゴリオ聖歌に魅せられて


 

中世西洋音楽と聖歌(2)

グレゴリオ聖歌の成立

カトリック教会及びその首長であるローマ教皇の権力の増大に伴い、教会音楽についても各地の聖歌を集大成しようとする動きが現れてきました。これが6世紀末のグレゴリウス1世の時代を中心に行われたため、このようにして編纂された聖歌を「グレゴリオ聖歌」と呼ぶことになったわけであり、これが中世の昔から今日までローマ・カトリック教会の典礼音楽として連綿と歌い継がれてきたのです。すなわちグレゴリオ聖歌は下記にような理由から西洋音楽の最も根源的なものであるのです。

  • 後世の音楽が発展していくうえでの基礎となったことなど大きな影響を与えていること
  • 地中海沿岸地域及びヨーロッパ各地の音楽要素が集約されることでできあがった初めての汎ヨーロッパ的性格を持った音楽であること
  • 断片的でなく纏まった形で今日まで演奏され続けている最古の音楽であること

もっとも、グレゴリオ聖歌の編纂はその後何世紀にも渡って行われているため、今日残されている資料でグレゴリウス1世の時代にまで遡るものは無く、最も古いものが8世紀から9世紀にかけての手写本ということになります。

フランク王国とグレゴリオ聖歌

もう少しグレゴリオ聖歌の音楽史上の位置づけについて考察してみますと、これらの最初期のグレゴリオ聖歌の資料がザンクト・ガレンやラン、シャルトルなどの修道院に存在していた点が重要となってきます。すなわち、この手写本に記された聖歌はこれらの修道院があったアルプス北方のガリア地方で成立したものとする見方が有力となっているのです。ところでこのアルプスの北方地域は、ゲルマン諸民族のうち、後の西ヨーロッパに統一をもたらしたフランク族のフランク王国の勢力圏内にあたります。フランク王国はその支配基盤を強固なものとするために、カトリックへの改宗を促進していました。

グレゴリオ聖歌の手写本
ちょうどその時期に、ガリア地方において最古のグレゴリオ聖歌の手写本が残されているという点についても、グレゴリオ聖歌が西洋音楽の基礎をなすものであるという論拠になるのではないかと思われます。すでに布教活動のために聖像を用いていたカトリック教会も、聖像崇拝禁止令を出していた東ローマ皇帝の干渉を退けるために政治勢力であるフランク王国と手を結ぼうとしていました。こうした両者の思惑から、フランク王国のピピン3世は、ローマ教皇の承認のもとに王位につきカロリング朝を創始し、続くカール大帝が800年にローマ教皇からローマ皇帝として帝冠を授かることとなりました。この出来事の世界史上の意義としては、ローマ、ゲルマン、キリスト教の3要素が融合されて、今日の西洋文化圏の基礎が出来上がったということになります。

中世西洋音楽とトルヴェールの音楽

1137年にギョーム9世の孫娘アリエノール・ダキテーヌがフランス国王のルイ7世と結婚することになり、北フランスに赴いた際に何人ものトルバドゥールを連れていったことが契機となり、北フランスにも同様の歌人が現れ、トルヴェールと呼ばれました。トルヴェールが用いた言語は、フランス語の祖先にあたるラング・ドイル(オイル語)というものです。トルバドゥールに比べるとフレーズ構成が明確になり、曲調も陽気で軽快なものが多くなります。主なトルヴェールとその作品としては、モニヨ・ダラスの「そは五月」や、アダン・ド・ラ・アラの「ロバンとマリオンの劇」などがあげられます。「ロバンとマリオンの劇」は最古の音楽劇として知られるものです。

獅子心王リチャード

前述のギョーム9世の孫娘アリエノール・ダキテーヌはルイ7世と離婚した後、プランタジュネット家のアンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と結婚しますが、その二人の間に生まれた子供の一人が獅子心王リチャードです。獅子心王リチャード自身もトルヴェールとして知られていました。獅子心王リチャードは第三回十字軍に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサ、フランス王フィリップ二世とともに参加していますが、こうした権力者とともに多くのトルバドゥール・トルヴェールが東方世界への遠征に随行し、十字軍に関する多くの詩歌を残しました。彼らの詩歌には「聖地奪還」というもはや叶わぬ理想が込められているからでしょうか、勇ましさよりは哀調を帯びたものが多いように感じられます。

ミサに参加してみませんか。

中世西洋音楽と中世の吟遊詩人

中世の吟遊詩人は、その活動した地域、身分により様々な呼ばれ方をしています。残された資料のうち最初の重要なものは、フランスのジョングルールと呼ばれた、いうなれば旅芸人のような人たちのものです。音楽家というよりは、村から村へと渡り歩く大道芸人のような人たちであったのかもしれません。こうした人たちとは別に、貴族などのお抱えとなって社会的な地位も少し向上した人たちはミンストレルと呼ばれました。12世紀になると、南フランスにトルバドゥールと呼ばれる騎士階級の歌人たちが現れ、音楽的にも充実した作品が生まれるようになりました。最初期のトルバドゥールは、プロヴァンス地方のアキテーヌ公ギョーム9世の館に集まった人たちで、ギョーム9世自身も最初の吟遊詩人といわれています。やがてこの地方から、多くの優れた歌人があらわれ、2600編ほどの詩と、260ほどの旋律が残されることとなりました。

主なトルバドゥールとその作品

音楽的には、フレーズの区切りが不明確な自由リズムが特徴であり、歌というよりも語りに近いものであるかもしれません。ベルナール・ド・ヴェンタドルンの「陽の光を浴びて、ひばりが」や、ランボー・ド・ヴァケイラスの「五月の一日」などがあげられます。作品の多くは恋愛詩で、この地方の方言であったラング・ドック(オック語)で書かれていますが、この時代になってようやくラテン語だけでなく俗語も表現力が拡大し、文学的に高度な内容を盛り込んだ詩作が可能となってきたことを表しています。また、この恋愛詩の内容は、主に既婚の貴婦人、それも多くの場合自分の主君の奥方を賛美するというものでした。かなわぬ恋の対象を設定することで、自らの詩的想像力を引き出していたのでしたのではないでしょうか。

初期キリスト教聖歌

成立当初には、さまざまな迫害を受けたキリスト教も、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令により公認されると急速に勢力を拡大し、ついにはテオドシウス帝によりローマ国教に制定されます。このテオドシウス帝の死後、ローマ帝国は東西に分裂することになります。キリスト教の公認以後、地中海沿岸地域の各地でいろいろな典礼の様式やそれに付随する音楽が行われてきたわけですが、帝国の分裂により、ますます西と東のキリスト教音楽の違いは明確なものとなり、東ローマ帝国内では東方教会聖歌(ギリシャ正教聖歌など)が独自の発展を遂げていきました。一方の西ローマ帝国内でも、古ローマ聖歌やミラノのアンブロジオ聖歌、アルプス北方地域のガリア聖歌、スペインのモザラベ聖歌など、その地方独特の聖歌が定着していました。西ローマ帝国は、4世紀中ごろに起こったゲルマン民族の大移動をきっかけとして476年に滅亡してしまいますが、カトリック教会はギリシア正教会に対抗するためにゲルマンの諸民族への布教を行い、その勢力を徐々に拡大していたのです。各地に設立された修道院が、この布教活動及びそれぞれの聖歌の発展の中心的な役割を担ったのでした。キリスト教も東ローマ帝国を中心としたギリシア正教会と西ローマ帝国を中心としたカトリック教会との2つの宗派に分かれることとなります。

合唱団員募集中!

中世西洋音楽とグレゴリオ聖歌についてまとめたサイトです。その手法、音楽様式、詩、劇・・・どれも魅力的です。

サイトタイトル
大人のピアノ教室

中世西洋音楽とグレゴリオ聖歌に魅せられて